「常識」「未熟」「理性」…KW?

世の中には「常識」というものがあります。

社会を構成する一人ひとりが、持っていて当然とされる知識や価値観のこと。

時代や住む地域が違えば、その常識の中身も異なってくるものです。


社会人になって社会生活を送っていれば一般的ないわゆる常識はおのずと身についていくものだけれど、やはり子供のころからの家庭環境や、教育の果たす役割は大きいように思います。


ただ、私も驚いたのが!かつて教えられた常識が間違っていたということもあるのです。


例えば、学校で習った…「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の設立は1192年は、間違いで⇒ 「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」と今では教わっているらしく…


また、ニュートリノには質量がないという定説は、日本人ノーベル賞受賞者の梶田隆章教授によって覆されたり… ま、科学の分野は日進月歩なので訂正の日々かもしれませんが…


でも、その常識を訂正されて、ある種感動を覚えることもあります。


例えば、歴史なんかは、新発見の連続ですが、5000年以上も前の人々は、毛皮を身にまとった原始人は動物のような原始生活を送っていたと教わったのに、実は、人々はそれ以前からムラの中で安定した暮らしを営み、物質的にも精神的にも高度な文化を築いていたということがわかっている… 

テレビやパソコンという物質がないだけで、基本的には現代人とさほど変わらない。


どころか、最近の常識では、1万年もの長く続いた縄文時代には争いがなかったという、なんとも聞いたときに、嬉しい驚きがあったりする。 

この縄文時代の無抗争というのは未熟な原始人というわけではなく、むしろ、逆に、精神的にも高度な文化であったという考古学の中でも証明されているそうです。


となると、弥生時代から争いが始まり… ケータイやネットがある今でも、テロや戦争が止まらない現代の方がどんどんと退化して、未熟になっているのかもしれません。


未熟」…でいうと、子どもは未熟であると多くの人は思っているけれど、たしかに、肉体的には大人より未熟だし、経験値が少ない分、精神的な鍛錬不足という点では、自我は未熟かもしれません。


ただ、加齢とともに大人になれば失うもの…例えば、記憶力だったり、好奇心だったり、感性を全開にして遊びに集中する能力なんかを見ていると、とても「未熟」なんか言えない。


体育会系で育った私とは正反対に、娘は昨年から学校のクラブでアンサンブル(吹奏楽部)に入部しました。

公立の小学校で、吹奏楽があるのは珍しいのと、顧問の先生が、自身もクラリネット奏者でもあるので、大変熱心で、朝練、放課後練、土曜日練と日々練習三昧。


でも。子どもらの演奏を聴いた後、ママさん達と口を揃えていつもいうのは

「鳥肌が立ったわー」 「涙出てくるー」「感動ーーー」


楽器を持ち始めてわずかな期間で、大人以上に素直でレベルの高い、小学生とは思えない演奏をしてしまう…

とても「未熟」とはいえない能力だといつも感心してしまうのです。さすがは京都代表校!


ただ、今の私たちは間違った思い込みによる「常識」があるように思います。


たとえば、「理性偏重

 近代以降の科学技術の発達や学問の発達に、理性が果たした役割は絶大でした。合理的に物事を割り切ったり、効率化をはかったり、コンピューターのような情報処理を行うのを、理性はもっとも得意とするから。


でも、理性を偏重すると、人間の身体的な野生や情緒は劣位におかれ、計算高いマニュアル人間ばかり増大してしまう。

いつのまにか、高学歴で成績優秀なそうした人々が、社会の中枢にいる現代になってしまいました。

すでに17世紀のフランスの哲学者・数学者:ブレーズ・パスカルは理性偏重がもたらす常識に警鐘を鳴らしています。


「理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。

それを知るところまでいかなければ、理性は弱いものでしかない


理性」ばかりの非常識な大人の「常識」を変えてこそ、「未熟」から脱出できるのかもしれません(*^^)v



Faith Japan

ココロとカラダのキレイを応援  ♡インナーケアラボ♡ 心身の健康に役立つ有意義な言葉や情報を お届けいたします(^^) http://faith-japan.jp ◆株式会社フェイス・ジャパン◆

0コメント

  • 1000 / 1000