いつも深く心酔できる 論語普及会学監、伊與田 覺氏のお言葉から。(抜粋)
「中庸」という古典に
『誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり』 という言葉があります。
誠とは自分にとっても他人にとっても嘘偽りのない心、いわば真心のことです。
天には道=ルールがありますが、
誠こそが天の道であり、天の道を素直に受けて誠にしていくのが人の道である、
と説かれています。
「中庸」を貫く最も重要な徳目は、『至誠』です。
修養とは天の道である誠を我が道とするように努力することであり、ここに人間の尊い生き方があるのです。
また、そうして真の誠に至った人は、
「従容(ショウヨウ)として道に中る(アタル)」
すなわち、特別に意識せず、ゆったりと余裕を持ちながらも正道を得ることができるとあります。
「七十にして心の欲する所に従えども矩(ノリ)を踰(コ)えず」という言葉を残した孔子は
十有五にして立派な人物になることを志し、様々な過ちを犯しながらも修行を続けました。
そして、七十になってようやく、自分の思いのままに行動してもそれが決して道理に背かないようになったというのです。
若い時分から努力を続けてきた結果、そういう境地に至ることができたのであり、忽然としてそういう状態になったわけではありません。
「中庸」では、先ほどの言葉の少し後に
「之を誠にするは、善を擇(エラ)びて固く之を執(ト)る者なり」とあり、
自分というものを誠にする者は、善を選んでそれを頑ななくらいに継続実行していこうとする者である、と説かれています。
「至誠というものは、外から来るものではなく、私たちは誰もが生まれた時から天地の心を受けている。これをいかにして発揮していくかということが人生ではないか…」
私が社名を「Faith Japan」(Faith=誠意)にしたのも、この「誠」という心の状態であり続けることを「志」としていきたいから。
そして、弊社の行動指針の第一番目に迷いなく
私達は、行動判断の基準を「善悪」とします
と決めたのも、常に「善を擇(えら)ぶ」という心の中のモノサシを鉄板にしていきたいから。
毎日連日、神様からのテストのオンパレードで(笑)
常に、右か左か はたまた上か下か 人生は選択の連続です。誘惑もあるでしょう。気落ちしちゃってるときに一瞬目が曇るときもあると思います。
でもいつのときも 「善を擇(えら)ぶ」 という指針でいけば、神様からのテストは合格。
ただ若い時にいろいろ苦労や失敗をした人のほうが、無難にとりあえず合格点を稼いできた人よりも人としての器が大きいような気がします。
だって、伊與田氏も「孔子も様々な過ちを犯しながら…」とおっしゃってますので(笑)どんな過ちだったのか興味津々なのはワタクシだけでしょうか??( ;∀;)
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